この家を通過した人々の記憶

2007年11月14日 水曜日

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自宅兼仕事場にお客さまが来ると、ポラを1枚撮らせてもらっていて、81枚になった。

パーティをする度に一気に数が増えるのだが、 悪友から家族・モトカノ・仕事の同僚までごちゃまぜで、日本人にロシア人にインド人。その脈絡のなさがたまらない。中には、名前も知らぬ友の友の友というのもいたり。あるじが酔っぱらいすぎのときは、手近な可愛いお嬢さんに撮って回るよう指令を出す。

留学時代に、ファインアート専攻の学生の創作用スタジオの前を通りかかって、利用者の顔がボードに貼ってあって、おもしろいなあと思った。写っているのは美大生達なので、ポーズやアングルも1枚1枚がクリエイティブ。アート専攻のやつらやるじゃねえか、と工業デザイン専攻の若者(わたし)は感心した。帰国してからチェキを買って遊んでいたのだが、写真を並べていてその時のことを思い出したのである。

最近は引っ越す度にゼロ枚から撮り直しているので、アート風に命名するなら「この家を通過した人々の記憶」とでもいうところだろうか。今夜のような寒々とした秋の夜長には、バーボン片手にこの部屋が人で溢れかえった一夜のことを思い出し、怪しげな微笑みを浮かべてみるというのも悪くない。

ポラというメディア自体が、アートっぽさプンプンだ。荒い粒子、強すぎのフラッシュ、ピンぼけしまくりの超クロースアップ。これに比べれば高性能デジカメは「完璧写真」製造マシンだ。1枚しかないという不便さも、考え方を変えると世界にたった1枚という希少価値を生み出している。ポラは、写真という「情報」ではなくて、「物」として扱う方が正解かもしれない。チェキで撮っているので、シャッター音1つで50 円。デジタルがタダ同然で撮れるわけだから、ポラは完全に高級路線だ。

元グッチのデザイナー、トム・フォードによれば、最新の流行にドップリつかっていれば、次に何が欲しくなるか、何が流行るかが自然にわかるものなのだという。デザイン屋の多くが格好いい生活を送っているように見えるのはそういう意図もある。要するに仕事の一環なのである。前述のハイテクを知り尽くしたMIT男(上の写真にもいます)が、最新鋭のインク ジェットではなくプリントゴッコを愛するくらいなのだから、テクノロジーの行く末は「便利さ」以外の方向にあるに違いない。

「この家を通過した人々の記憶」には、1つの感想があります 。

  1. 佐藤純さん

    ご無沙汰しています。

    出不精&人見知り&非オサレのため、おウチにお邪魔することはなさそうですが、阿部さんのセンスは好きで、いつか仕事もしてみたいものです。

    ではでは。

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